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おねしょパンツドットコム > 店長プロフィール

村原忠実の写真

■ご挨拶

こんにちは。「おねしょパンツドットコム」の村原忠実です。
大阪から世界を目指して、おねしょでお困りの方に、「おねしょパンツ」を 届けるビジネスをしています。

「おねしょパンツ」て、何? と言われそうで、まだまだ認知度の低い商品です。

赤ちゃんの時は、おむつでみなさん対応されていて、2歳〜3歳になると 尿意を催したとき、「トイレ」と言えるようになります。 これで、「おむつ卒業」です。

しかし、世の中には、4歳を過ぎても、「おねしょ」「尿漏れ」が残る子たちが たくさんおられます。

数年前までは、そのようなお子さん向けの対策商品は、ありませんでした。

当店は、2010年からおとな用の「失禁パンツ」「尿漏れショーツ」の取り扱いを開始し、 2013年から「おねしょパンツ」の取り扱いを始めました。

「おねしょパンツ」では、日本での先駆者と自負しております。


おねしょパンツ


私、村原のプロフィールをご覧ください。



■タバコ乾燥小屋での夜なべ■(小学生)

タバコ乾燥小屋

私の親父は、岡山県高梁(たかはし)の山の上で、百姓をしていました。

私が3歳のころに、父は農家の跡取りの長男であったにも拘わらず、妻子を置いて、家を出て、神戸にやって来て、川崎製鉄という会社の工員として職を見つけ、1年ほど経過した後、家族を呼び寄せて、神戸市東灘区での生活が始まりました。

父は、仕事はまじめに行っていたようですが、賭け事が好きで、パチンコ、競輪、競艇、によく行っていました。生活費にも困る状態で、夫婦けんかが絶えませんでした。

そんな父をあまり尊敬していませんでした。

父の捨てた田舎には、父の弟さん(おじさん)がいて、私を生まれた時から、かまってくれた続きで、大きくなっても、「たーちゃん たーちゃん」と面倒を見てくれます。

そんなおじさんが大好きで、小学校3年までは、毎年 盆か正月には、母か父に連れられて、帰郷していました。

小学校4年の時の夏休みに、一人で田舎へ行きました。
小学校で、学生割引の証明書を発行してもらい、JR六甲道の駅で、切符を買い、神戸駅で、列車に乗り換え 姫路でまた、乗り換え、岡山で蒸気機関車が引く列車に乗り換え、伯備線川面駅まで、行きました。
6時間くらいかかったと思います。

駅から、約5kmの山道をひとりで歩き、やっと到着です。

その当時、おじさん宅では、タバコの栽培が主な事業で、日本専売公社(今のJT)からタバコの種を分けてもらい、大きく育ったら、葉をひとつづつ 摘み取って、ひもに括り付け、タバコ乾燥小屋で、2〜3日、マキを燃やしながら、乾燥させます。

この作業は、昼も夜も、マキを切らすことなく、続ける必要があったようです。
毎晩、火の面倒を見るのは、おじさんです。かまどの前で、普段なら寝る時間に、おじさんの横に座って、夜っぴて、いろんな話をするのが、たまらなく好きでした。
周りが暗い闇の中で、目の前のかまどの火だけが赤々と燃えていて、おじさんがおとぎ話をしてくれる、そんな夢のような時間でした。

■ニューヨークでの勤務■(28才〜33才、35才〜38才)

ニューヨーク摩天楼

時代は移り変わって、私が28歳の時、大阪で仕事をしていた私に、「ニューヨークへ転勤」という辞令がおりました。

うれしいのと、不安なのと入り混じった気持ちです。

不安は、ニューヨークでちゃんとお客さんと英会話ができるだろうか?です。

でも、その当時でも、オーストラリアから、南アフリカから、東南アジアからのお客さんを相手に英語で商談をしていましたので、 「まあ〜何とかなる」と、タカをくくっていました。

1976年7月7日 羽田からアンカレッジまで。当時の飛行機は、航続距離が長くなく、東京からニューヨークまで、直行はできませんでした。
アンカレッジで、ニューヨーク行きに乗り換え。
ニューヨークには、出発した日と同じ7日の土曜日の朝に到着。
先輩と1か月早く赴任した同期が迎えに来てくれて、ほっとひと安心。
ホテルにチェックインする前に、先輩の家の庭で、バーベキューをしてくれたのが、うれしかった。


■1回目の危機(ニューヨーク)■(28才)

当時、事務所は、エンパイアステートビルの33階にありました。

ある日のニューヨークの事務所でのこと。

午後の早い時間。電話が「ジリジリ ジリジリ」と鳴っている。

日本人スタッフは、皆、客のところに出かけていて、誰もいない。
現地の女性スタッフも、なぜか、全員不在。

仕方なく、電話を取ると "Mr.Mita , please"

三田さんは私の大先輩で、その時、外出中です。

"Sorry, he is out" と答えると、"Please tell him ○▼□???"とウルトラ超スピードで1分間くらいしゃべり続けた。

さっぱりわからないので、"Pardon, please say it again " と言うと、"○▼□???"とウルトラ超スピードで、また1分。

電話を持つ手が脂汗でねっとり。

「これではいかん」と思い、せめて名前だけでも聞いておこうと考えを改めて、 "Who's calling, please" と言うと "???▼□○" 「ガチャン」で切れた。

メモに何と書こうか? 

「三田さんに電話がありました。」
 「誰から?」
「何の用事?」

ああぁぁ〜〜 



本町界隈

■2回目の危機(大阪)■(51才〜53才)

時は、また移り、一挙に飛んで、1998年 当時勤めていた会社を希望退職し、退職金で、今の会社を買い取りました。

前の社長が当分仕事を続けたいというので、そのまま、会社に在籍してもらい、前社長に、仕事をしてもらうという心づもりでした。

つまり、私の給料、女性事務員さんの給料、および会社の経費を前社長の稼ぎで、賄ってもらおうと思っていました。

私は仕事はしないけれど、肩書は社長。

サラリーマン時代と同じく、給料は、毎月決まった日に払われるものと思っていました。

業績が悪くなっていくのは、わかっていましたが、ま〜何とかなるだろうと、タカをくくっていました。

2年後、前社長が退職すると言い出しました。

自分も成績が上がらず、いつまでも、会社に迷惑をかけるわけには、行かない、という理由です。
慰留することもなく、やめていただきましたが、 「さあ〜 これからどうする?」

会社は、借金をしないと資金繰りが付かなくなっていたのです。

稼ぎもないのに、給料は、今まで通り、支払っていたら、会社がやって行ける訳がありません。

この時、初めて、自分の給料は、自分で稼がないといけない、ことに気が付きました。



本町界隈

■3回目の危機(中国)■(54才〜62才)

前の会社時代のお付き合いしていた人物から、中国での縫製工場の管理と輸入業務をしないかと誘われ、その仕事に集中しました。(2001年〜2009年)

毎月、上海から平湖、青島などの生地メーカー、縫製工場を回り、生産管理をし、仕上がったアパレルを、輸入し、国内で、販売するという仕事です。

多いときは、輸入一回分の支払額が500万円、1,000万円になります。
会社の業績も、売上額で年商5億円まで、行きました。

順風漫歩のように、見えますが、これが大きな「落とし穴」だったのです。


輸入するには、当然ですが、輸入代金を支払う必要があります。

しかし、その時点では、お客さんからの支払いがありません。

そこで、輸入代金と輸入関税分の銀行融資を受けます。
融資期間は、お客さんからの支払手形の満期日までの期間です。

どのくらいの期間だと、思います?

まあ〜なんと、240日くらいの期間です。

輸入決済をして、請求書を発行するまでは、10日くらいですが、 お客さんがその商品代金を支払うのは、翌月の15日で、その支払日起算の手形の期日が150日という超ロングな手形です。

こちらは、吹けば飛ぶような弱小零細企業。相手は、年商50億の中堅企業。

こんなビジネスを続けていたら、ちょっとクレームつけられて、支払いがストップしてしまうと、当社は行き詰まり、倒産です。

商売をつづけながら、縮小していくのは、難しかったのですが、中国関連のビジネスからは 1年で完全に手を引きました。

本町界隈

■小さな一歩の始まり(大阪)■(63才〜)

2009年12月 自分の原点に戻って、何のために、サラリーマンをやめて、会社をやったのか?をもう一度考えました。

それは、「ネットショップを運営したい」という気持ちがあったことに気が付きました。

それなら、ネットショップビジネス以外は、一切、手を出さず、ネットショップにだけ集中しようと、決めて、事務所も移転し、今までのスタッフも総入れ替えをして、新たなスタートを切りました。


私と女性スタッフ3人、合計4人で、再出発です。

再出発に当たり、従来、手がけていた「女性用肌着」「女性用UVカット小物」「子ども用UVカット水着」だけでは、ビジネスを大きく伸ばすことは、難しいと考え、模索していましたが、 偶然に、取引先から、失禁パンツを生産している大阪の工場を紹介していただき、取引を恐る恐る、始めて見ました。

2009年当時は、世の中に、「失禁パンツ」「失禁ショーツ」という商品がまったく認知されていませんでした。

店頭では、ほとんど販売されていない商品です。また、たとえドラッグストアの店頭にあっても、種類は少なく、商品を手に取ってレジに持って行くのは、恥ずかしいという風潮でした。そのような状況でしたので、対面販売ではないインターネットを通しての注文をいただけるように、なっていきました。

電話の問い合わせも増えてきました。
できるだけ、親切に、丁寧にお話をさせていただくように心がけています。

ある日の電話で、「男性用の失禁パンツ(100t対応)の3Lサイズは、ないですか?」との問い合わせが来ました。

当時、メーカーのサイズ展開は、M、L、LLの3つのサイズだったのです。
LLサイズでも、ちょっと入りそうにないので、3Lサイズが欲しいとのお話です。

メーカーの製造担当者と交渉し、「3L」サイズを特別に作っていただくように説得しました。

1か月後、その商品が入荷し、問い合わせをいただいた方に、電話で連絡を入れて、注文をいただきました。

その方のレビューです。


先日は、迅速な対応をありがとうございました。
膀胱がん・多発性転移の父を、少しでも元気なうちに温泉旅行に連れて行こうと計画していました。
頻尿を心配する父のために個室風呂を用意しましたが、オムツで脱衣することは抵抗があり、パンツの購入をお願いいたしました。

最後の温泉旅行になってしまうかもしれませんが、とても喜んでくれました。

本当にありがとうございました。

また、お願いしたいと思っています。



■おねしょパンツへの進出(大阪)■(64才〜)

2012年からは、「子ども用おねしょパンツ」の分野に進出しました。
こちらも、まだ、誰も手掛けていない分野でした。

その当時、 唯一、福岡のニシキ(株)が手がけられていました。
当初は、ニシキさんから商品を仕入れて小さくスタートしました。
その内、お客様からの電話で、

「おねしょ用のパンツに見えないこと」
「もし、どこかで脱ぐようなことがあっても、内側の吸水帯の色は、
白ではなく、身生地と同じであること」
「カシャカシャ音がしないこと」
「おしっこのにおいがしないこと」
「着用していても分厚くないこと」
「洗濯・乾燥がしやすいこと」
など、たくさんのご意見・ご要望をいただきました。

ニシキさんにこれらのお客様の声を伝えて、商品の改善、開発を依頼しましたが、取り合ってくれませんでした。その当時の当店の販売量が、生産ロットに見合わなかったのでしょう。

それなら、自分たちで作るしかない、と決意して、生産の準備に取り掛かりました。
1)身生地の素材は、どれにするか?
2)吸水帯の素材は、何にするか?
3)パンツの形は、どのような形にするか?
4)サイズは、いくらからいくらまで作るか?
5)販売価格はいくらにするか?
6)ネーミングはどうするか?

試行錯誤を繰り返し、モニターテストを10回以上重ねて、やっと誕生したのが「Sora」です。

お客様のレビューです。

尿漏れを繰り返す6歳の息子。周りのお友達に「臭い」と言われ、どうしたらいいのか毎日悩んで いたところにこのパンツに出会いました。尿漏れしても全く臭わず見た目も普通のパンツと同じ なので学校での着替えも気になりません。もうこのパンツなしではいられません。 ありがとうございました。



こどもさんの世界でも、おねしょ、尿漏れが気になる時が、けっこうあります。

クラブの合宿、修学旅行、友達の家でのお泊り、など。

そんな時に、もし、粗相をして、友達にからかわれたら、落ち込みますし、またイジメに進むかも知れません。

周りのストレスを感じやすい多感な時期を、少しでも、快適に、普通のこどもさんと同じように過ごせるようにしてあげたいという、気持ちです。



今、このビジネスに携わって行けることが、とても幸せです。

お客様の声をモノづくりに生かせること。

お客様の喜びの声を直接聞けること。

最高だと感じています。

失禁パンツ、尿漏れショーツ、おねしょパンツの世界のセンターになるべく、今後も、商品開発と販売に邁進していきたいと思っています。